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太陰太陽暦(旧暦)と年中行事

 折々に織りなす日本の四季は、日本の繊細な美意識、豊かな感性や表現力を育んできました。またその自然観は協調性と寛容な心を育んできたとも言われています。
 しかし、最近その季節感や美意識、感性や表現力が失われ、殺伐とした精神風土に取って代わられようとしていると指摘する人も少なくありません。
 私は単なる懐古主義者ではありませんが、日本人の繊細で豊かな智恵や文化を、太陰太陽暦(旧暦)を通して、再度見直してみることは決して無駄のことではないと考えています。
 むろん、日本が明治維新後、富国強兵策のもと、西洋の近代合理主義を積極的に取り入れ、現在の日本の繁栄の基盤を作ったことは紛れもない事実でしょう。このこと自体に何の文句もありませんが、一方で検証することなく切り捨てられた捨てがたい文化が相当あったのではないかと考えています。
 その一つが暦といえないでしょうか。暦が持つ時空間は近代以前の日本人の生活や自然観に密接に関わってきたと思うからです。ただ、太陰太陽暦(旧暦)の方が日本の季節にあっているというのは間違いです。季節という点からすれば太陽暦の方が明らかにあっています。しかし、太陰太陽暦はこの欠点を逆手にとって、太陽の運行をもとにした、二十四節気や七十二候を上手く取り入れ、かつ、自然をつぶさに観察し、生活に彩りを紡いできた智恵があったのです。ではなぜ、太陽暦を採用した日本で季節感が希薄になってきたのでしょうか。
 むろん、近代化の波の中で失われた自然、ハウス物の栽培が盛んになり、旬の感覚が薄れてしまったことに無縁ではないでしょうが、多分に真冬なのに、年賀状に書く新春や初春。野路ものが手に入らない春の七草、桃の花の咲かない「桃の節句」、卯の花の咲かない卯月、梅雨時と無縁でないはずのコイの滝のぼりは、初夏のすがすがしい青空にたなびく「鯉のぼり」となってしまい、五月雨と梅雨空を想像したかと思えば、五月晴れと初夏の青空を思う感覚、梅雨どきでほとんど見ることができない七夕、仲秋の名月(八月十五日)だけは旧暦で行う理由などなど、微妙な季節感にも敏感であったはずの日本人が、これらのおかしさを何の疑いもなく受け入れてしまったことにも原因があるのではないでしょうか。
 旧暦で行われていた各種年中行事を、太陽暦に改暦した時、旧暦の日付をそのままにして西暦の日付に置き換えて行うようになって、多くの年中行事は混乱を極めました。このため、太陰太陽暦は太陽暦に比べ一カ月ほどずれているので、いわゆる「月遅れ」が考え出され、この季節のずれをかろうじて取り戻そうとした智恵が、旧暦をほとんど知らない世代になって、太陽暦と、旧暦と月遅れの混同がおこり、さらに混乱させることになりました。
 全て時間軸を旧暦に置くことによって簡単に説明でき、一端途切れてしまったかのように見える日本の各種風習や自然観が合理的意味をもって甦ってくるのです。

 本来旧暦で行われていた行事が、日付をそのまま太陽暦に置き換えて行うことによって、本来の意味あいが失われてしまった代表的なものを考えてみたいと思います。

※注)人日や上巳などの五節句の<句>はもともとは五節供と書かれていました。

●正月(旧暦正月朔日)

 旧暦の正月は立春にもっとも近い新月の日(旧暦の正月一日は、月は地球に対して影の部分を向けているので、地球から月は全く見ることのできない日)と決まっていたので、当然暦の上では初春、新春となり、年賀状などで、冬本番なのに「初春」「新春」などと書くのは太陽暦になった今でもその名残が残っているのです。中国でこの旧暦正月は、春節として最も重要な行事の一つです。

 2011年の正月は2011年2月3日(木)
 2010年の正月は2010年2月14日

●人日(旧暦正月七日・七草粥)

 ほとんど死語に近い言葉ですが、五節句のひとつで、七草粥を食す日といえば、「あゝ1月7日のことですね」と合点される方も多いでしょうが、これも旧暦一月七日の行事(月は上弦の頃)でした。今ではハウスものなどが出回るようになっていますが、西暦の1月7日頃に野路もので春の七草は揃えられません。
 春の七草とは、セリ、ナズナ、ゴギョウ、ハコベラ、ホトケノザ、スズナ、スズシロを指します。
 2011年の人日は2011年2月9日(水)
 2010年の人日は2010年2月20日

●小正月(旧暦正月十五日)

 西暦の1月15日を小正月とよんでいる方もいますが、これも本来は旧暦正月十五日の行事で、年が明けて最初の十五夜(ほぼ満月)を小正月としてお祝いしていました。松の内で働いた女性をねぎらって女正月(めしょうがつ)とよぶ風習が残っている地域もあるそうです。また、かつて旧暦の正月十五日に元服の儀を行っていて、1月15日が成人式であったことはその名残です。今では、この小正月の意義も薄れてしまったため、成人式は1月の第2月曜日に移動されてしまいました。
 因みに元服とは「冠婚葬祭」の「冠」にあたる行事で、かつては元服といえば家長制度の中では重要な役割を担っていました。

 2011年の小正月は2011年2月17日(木)
 2010年の小正月は2010年2月28日

●上巳(じょうし・旧暦三月三日=桃の節句・雛祭り

 上巳とは五節句のひとつで、もともとは、古代中国からあった行事で、旧暦三月の最初の巳の日、身の穢れを祓う風習があったようです。この日、草木や紙などで人の形をつくり、川や海に流していました。それがいつの頃からか三月三日に固定されて行われるようになったのです。
 日本では、三月三日、雛祭り、桃の節句として親しまれてきました。この行事の起源は奈良時代にさかのぼり、平安貴族の「曲水の宴」や「ひいな遊び」(紙などで作った人形を人に見立てた人形遊びで今で言うままごと遊びのようなもの)が長い歴史の中で結びつき、雛祭りへと変化してきたと考えられます。雛祭りとして、一般の庶民が楽しむようになったのは江戸時代の半ばを過ぎてからのようです。
 また、雛祭りには桃の花も主役でした。桃の花は3月下旬から4月中旬にかけて花を咲かせますが、西暦の3月3日では季節感が異なります。雛祭りは桜の花が咲き誇り、やがて桃の花が咲く頃の行事であったということを忘れては欲しくない日本の文化であり季節感であったのです。端午や重陽の節句でも触れますが、人日は春の七草、上巳(桃の節句)は桃、端午(鯉のぼり)は菖蒲、重陽(菊の節句)は菊といった季節感を不問にして太陽暦(西暦)で行う五節句に疑問を感じないわけにはいきません。

 冷泉為尹(ためまさ)『為尹千首』(応永22年〈1415〉成立)には

 さらば又三月三日の月の影はやさしそへよ桃のさかづき

 というのがあり、西暦の3月3日という感覚では解りにくい。ここでいう三月三日の月とは言うまでもなく「三日月」のことで、「桃のさかづき」と詠んだ意味あいも頷けるものです。
 また、『枕草子』(池田亀鑑校訂・岩波文庫より)、

 三月三日は、うらうらとのどかに照りたる。桃の花のいまさきはじむる。柳などをかしきこそさらなれ、それもまだまゆにこもりたるはをかし。

とあります。

 さらに、旧暦の三月三日頃は大潮の時期にもあたり、雛祭の起源の一つに水辺での祓(はらい)の行事がありますが、現在でも雛祭の日には、海辺で貝を拾ったりして遊ぶ磯遊びの風習が残っている地方もあり、大潮、磯遊び、潮干狩とこの頃、潮干狩りが盛んになることに関連があるでしょう。

 2011年の旧暦三月三日の上巳、雛祭りは2011年4月5日(火)
 2010年の旧暦三月三日の上巳、雛祭りは2010年4月16日。

●端午(たんご・旧暦五月五日)

 重五、橋陽、菖蒲の節供などともいいます。もともとは最初の午(初めの午の日)という意味でしたが、五と午をかけて旧暦の五月五日に定着するようになりました。中国から日本に伝わったのは古く、日本書紀によると、仁徳天皇の五月に菖蒲を献上したのが始まりとか。一時廃れたようですが、聖武天皇の天平十五年(747年)に復活されました(続日本記)。この日に菖蒲が用いられたのは薬草で邪気を避け悪魔を祓い、火災を除くという信仰に基づいているとか。
 武家社会になって、この菖蒲と尚武の音が相通じると喜ばれ、江戸時代には公事として盛んに祝うようになり、菖蒲湯や鯉のぼり、吹き流しや武者人形を飾る習慣が一般化してきました。
 鯉のぼりは、中国の故事、鯉の滝のぼり(登竜門)などにあやかったものと考えられています。梅雨時の急流をのぼり、龍になるという故事に男児の出世を重ね合わせたとも。しかし、今では西暦の5月5日、初夏の空にたなびく鯉として本来の意味あいは薄れてしまったようです。また、西暦の5月ではまだ菖蒲やヨモギはまだまだ旬ではありません。

 2011年の旧暦五月五日の端午の節供は2011年6月6日

●七夕(しちせき・旧暦七月七日)

 これも本来旧暦の七月七日の行事で季語は秋でした。今当たり前に七夕といえば西暦の7月7日がほとんどでしょう。しかし、この頃はまだ梅雨も明けず、天の川を見る機会は格段に少ない時期です。
 また、せっかく晴れたとしても、ちょうどその時、月が満月に近い状態であれば、その月明かりでやはり天の川は見にくくなってしまいます。因みに西暦の7月7日を旧暦に変換すると以下のようになります。
 2008年7月7日→月暦六月五日
 2009年7月7日→月暦閏五月十五日
 2010年7月7日→月暦五月二十六日
 2011年7月7日→月暦六月七日
となり、08年、10年、11年は問題ありませんが、09年の7月7日はほぼ満月の月明かりに邪魔されて、たとえ晴れても天の川はよく観ることができないでしょう。
 これが旧暦七月七日なら8月初旬から下旬にかけて空の澄んだ日も多く、お目当ての牽牛(アルタイル)、織女(ベガ)を見るチャンスはがぜん高くなります。また、この日は必ず上弦の月(半月)に近い月が約束されている(上弦の月は夜になれば西に傾き沈んでしまう)ので、天の川もよく見ることができます。
また仙台の七夕はいわゆる月遅れの8月7日をはさんで行われていますが、これを「仙台の七夕は旧暦で行われています」といったアナウンサーがいました。旧暦の知識があればこのような誤解は起こらないはずです。
 国立天文台では2001年から、「新暦7月7日はたいてい梅雨のさなかでなかなか星も見られない」という理由で、旧暦七月七日を「伝統的七夕」と呼び、その日の太陽暦での日付を広く報じ国立天文台のある三鷹市ではこの日ライトダウンを奨励し、可能な限り七夕の夜空を楽しむ機会作りをしています。因みに旧暦の七夕は2008年は8月7日ですが、2009年は8月26日、2010年は8月16日にあたります。月はすべて上弦の月の頃で、ちょうど船の形をした月が彦星と織姫の間を取り持つように沈んでいくのが見えるはずです。

  天(あめ)の海に雲の波立ち月の船星の林に漕ぎかくる見ゆ(万葉集7)

  ひさかたの 天の河原に 上(かみ)つ瀬に 玉橋渡し 下(しも)つ瀬に 笛船浮けすへ 雨降りて 風吹かずとも 風吹きて 雨ふらずとも 裳(も)ぬらさず やまず来ませと 玉橋わたす  (万葉集8)

  天の河浮津の波音騒くなりわが待つ君し舟出すらしも (万葉集8-3)

  天の川水さへに照る舟競(ふなぎほ)い舟漕ぐ人は妹と見えきや (万葉集9)

  天漢(あまのがわ)霧立ち渡る今日今日とわが待つ君し船出(ふなで) すらしも (万葉集9:1765)

  天の川水さへに照る舟競(ふなぎほ)い舟漕ぐ人は妹と見えきや (万葉集10)

  わが恋を妻は知れるを行く船の過ぎて来(き)べし言(こと)も告げなむ (万葉集10-2)

の船も舟も、天の川に対している言葉ですが、上弦の月を船にみたてて表現した部分もあろうかと思います。
また、旧暦七月七日は初秋の行事で、当然次のような歌も見受けられます。

  秋風の吹きにし日よりいつしかとわが待ち恋し君ぞ来ませる (万葉集8-2)

東北の三大祭りとして有名な仙台の七夕祭りは月遅れの8月7日を中心に行われ、一応立秋の後で、初秋の行事となっていますが、残念ながら月の満ち欠けは全く考慮されず、本来の七夕の意義はありません。

  七夕の 逢夜なからも 暁の 別はいかに 初秋の空 (伊達政宗)

 因みに、2011年の旧暦七夕は8月6日(土)

 また、旧暦七夕に降る雨を洒涙雨(さいるいう)と呼び、牽牛と織女が逢瀬の後に流す惜別の涙が雨になったものとも、逢瀬が叶わなかった悲しみに流す涙の雨だともいわれ、季語は秋になります。しかし、西暦7月7日が七夕として定着する昨今、この言葉も死語になるのでしょうか。西暦7月7日の梅雨時の雨を洒涙雨と呼ぶにはいささか色あせてしまいます。

また、七夕に雨が降ると天の川の水が溢れ牽牛と織女が逢えなくなってしまうため、それを哀れんだ無数のカササギがやってきて、天の川に自分の身体で橋を作り渡らせるという七夕伝説が残っているという。

  鵲の渡せる橋におく霜のしろきを見れば夜ぞ更けにける(大伴家持・新古今/百人一首)

  笹の葉に枕附けてや星迎へ(宝井其角)

●お盆と盆踊り、そしてお中元(旧暦七月十五日)

 現在、お盆というと、西暦の7月15日に行う地域と8月15日に行う地域があります。本来はお盆は仏教の盂蘭盆会からきた行事で、旧暦の七月十五日に行われました。この十五夜(ほぼ満月)の月明かりのもとで、踊り明かしたのが盆踊りです。当たり前の話ですが、満月は夜中中輝いているのです。東京などの7月15日は旧暦の七月十五日をそのまま置き換えただけですし、旧盆といわれる8月15日のお盆はいわゆるその月遅れです。7月15日も8月15日も月明かりとは全く関係がありません。因みに旧暦の七月十五日を西暦に変換すれば、2008年は8月15日、2007年は8月27日、2006年は8月8日となります。

 お中元とはもともとは中国から入ってきた行事で上元を旧暦一月十五日、中元を七月十五日、下元を十月十五日として、燈明を供えて太乙星(ダイイツセイ)を祭り夜を徹して遊楽に耽ったことが始まりとか。ところが、中元の七月十五日が仏教の盂蘭盆会にあたっていたため、この二つが合体し、三元の中でも中元は新年とともに重んじられるようになりました。江戸時代からは商業の取引も盆と節季(大晦日)とに決算する習わしとなり、今でも盆暮れには贈品を取り交わす習慣として残っています。

●八朔(はっさく・旧暦八月一日)

 八朔とは旧暦(月暦)で、八月朔日(一日)のことで、この頃、早稲の実ることから「田の実の節句」と呼ばれ、かつては重要な雑節でした。特に家康が江戸入場を果たしたのが天正八年八月一日(1590.8.30)であったことから江戸幕府ではこの八朔は重要な祝日でした。
 また、田の実を「頼み」にかけて、京都祇園の花街では、芸妓や舞妓たちが芸事で世話になっている師匠にあいさつ回りをする伝統があり、現在でも月遅れとなる西暦の9月1日に八朔祭りが催されています。越中おはら節、風の盆の行事もこの八朔を起源としています。他にも都留市の出生神社の八朔祭りなど各地にこの八朔の伝統行事が残っていますが、そのほとんどは、月遅れの9月1日を中心とした日取りに変えられています。
 因みに柑橘類のハッサクもこの八朔のころが旬であることから名付けられたそうです。




初午(旧暦二月最初の午の日)、端午(旧暦五月五日)、仲秋の名月(旧暦八月十五日)、重陽(旧暦九月九日)、十三夜(旧暦九月十三日)、大晦日(旧暦十二月の晦日)については後日更新します。

2010年の年中行事(旧暦)

●以下は是非とも旧暦で行いたい年中行事です。もっとも「中秋の名月」「十三夜」「十日夜」だけは「月」が主役ですから太陽暦では行いようがありませんが・・・

正月(月暦正月一日):2月14日(日)
人日(月暦正月七日):2月20日(土)
小正月(月暦正月十五日):2月28日(日)
上巳(月暦三月三日):4月16日(金)
端午(月暦五月五日):6月16日(水)
七夕(月暦七月七日):8月16日(月)
中元(月暦七月十五日):8月24日(火)
八朔(月暦八月一日):9月8日(水)
仲秋の名月(月暦八月十五日):9月22日(水)
重陽(月暦九月九日):10月16日(土)
十三夜(月暦九月十三日):10月20日(水)
十日夜(月暦十月十日):11月15日(月)

2009年の年中行事(旧暦)

人日(月暦正月七日):2月1日(日)
上巳(月暦三月三日):3月29日(月)
端午(月暦五月五日):5月28日(木)
七夕(月暦七月七日):8月26日(水)
中元(月暦七月十五日):9月3日(木)
八朔(月暦八月一日):9月19日(土)
仲秋の名月(月暦八月十五日):10月3日(土)
重陽(月暦九月九日):10月26日(月)
十三夜(月暦九月十三日):10月30日(金)
十日夜(月暦十月十日):11月26日(木)

2008年の年中行事(旧暦)

人日(月暦正月七日):2月13日
上巳(月暦三月三日):4月8日
端午(月暦五月五日):6月8日
七夕(月暦七月七日):8月7日
中元(月暦七月十五日):8月15日
八朔(月暦八月一日):8月31日
仲秋の名月(月暦八月十五日):9月14日
重陽(月暦九月九日):10月7日
十三夜(月暦九月十三日):10月11日
十日夜(月暦十月十日):11月7日


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