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 暦について/暦の発見(太陰暦から太陰太陽暦へ)

 太陰太陽暦を考える前に簡単に暦の成り立ちを考えてみたいと思います。現在、私たちが使っている暦法は大きく分けて三つあります。一つが人類最古の暦法といわれる太陰暦。二つ目が太陰暦に太陽の運行を加味した太陰太陽暦、そして三つ目が現在私たちが供している太陽暦です。
 では、私たち人類は暦という概念をどのようにして持つに至ったのでしょうか。
 道具が発明され、言葉を使い文字を作り出した人類は、やがて農業などを行うようになり、人と人のコミュニケーションや集団生活を行うようになると、いくつかの約束事が必要になってきます。その一つに日を数える必要も生まれたと考えられます。まず、太陽が昇り朝を迎え、日が沈み夜となる。そしてまた日が昇り朝を迎える。この規則的な繰り返しを通して、古代の人類は一日という概念を得たと思われます。
 暦の語源が「日読み(かよみ)」からきているといわれるのも頷けます。また、カレンダー(Calendar)の語源といわれるラテン語のカレンダエ(Kalendae)は「宣言する」とか「叫ぶ」という意味で、古代ローマでは太陽暦が採用されるまで、新月が出ると「月が出た!」と知らせていたところから、いわゆる「最初の日(朔日)」という意味を持つようになり、今のカレンダーにつながったようです。
 また、英語の月<moon>や一ヵ月<month>の語源はラテン語の「暦の月<メンシス=mensis>」からきているし、英語の測る<measure>も、月経も、すべてラテン語の「測る」を語源としています。つまり「月」とは、測るものの基準であったことがうかがわれます。因みに英語の時をあらわす time と、潮汐をあらわす tide も同じ語源だそうで、月や潮汐が時を測るのに広く用いられていたことがわかります。

■太陰暦

 純粋な太陰暦とは、人類にとって太陽と共にもっとも身近な月の運行、つまり月の満ち欠け(朔望)をもとにした暦です。新月を朔日(一日)とし、満月を経て次の新月にいたる月の朔望の周期は約29.53日ですので(半端な1日はありませんから)、ひと月は29日と30日で成り立っています。身近な存在である月の満ち欠けの周期は、日を数えるには格好の素材であったに違いありません。新月から次の新月までの周期、いわゆる朔望月を通し、1カ月という区切りを編み出したのでしょう。ということで人類が最初にもった暦の概念は月の運行をもとにした純粋な太陰暦でした。
 しかし、月の満ち欠けの周期は太陽の動きとは関係がないため、12回朔望月を繰り返しても約354日しかならず、1太陽年に対して約11日足りません。このため、太陰暦では3年で一カ月強、十数年たつと春が秋となり、夏が冬になってしまいます。この純粋な太陰暦はイスラム暦など一部の地域で現在でも使用されています。

■太陰太陽暦

 太陰太陽暦とは、月の運行(太陰暦)と太陽の運行(太陽暦)の周期を組み合わせ季節が大きくズレないように工夫された暦で、古くはもっとも広範囲に使われていた暦です。
 特に農耕民族にとって、季節は種を蒔いたり収穫する上でも重要で、暑さ寒さの予測、その繰り返し、陽の照射角度の変化、天候の変化などの規則性から、太陽との関連性で1年が365日強という概念に気づきます。しかし、太陰暦でいうところの朔望月を12回繰り返すだけでは約354日にしかならず、太陽の1年とは約11日の開きがあります。そのまま放置すれば、3年で約1カ月、十数年たてば冬が夏になり、春が秋になり月だけの観測で編み出された太陰暦では季節が特定できなくなることも知ります。
 こうして、月と太陽を観察することによって暦は進化を遂げ、太陽との季節のズレを修正するため、3年に一度、正確には19年に7度(メトン法、中国では章法)ある月の後に1ヵ月、閏月として加え、その年は13ヵ月とし暦と季節が大きくずれることを防いでいます。これが太陰太陽暦です。古代バビロニアやユダヤ、古代ギリシャ、古代中国でほぼ同じころに生まれたといわれています。しかし、それでも太陰太陽暦の1年は354日から384日と変動し、季節感は毎年11日から30日近く変動します。
 いずれにしても太陰太陽暦とあるように、月の運行(月の満ち欠け)をもとにしつつ太陽の運行を加味した暦ということができます。
 こうして人類は、月と太陽を代表とする天体の観察をとおして、1日を太陽の動きから、1カ月は月の満ち欠けから、そして1年は太陽の動きから導きだし、暦の概念ができあがったのです。しかし、この後、暦は大きく分けて二つの流れを生み出しました。それが太陽暦と太陰太陽暦でした。


イギリスのソールズベリー草原のストーンヘンジ
古代の天文台ともいわれ月や太陽の運行を正確に観測できたという。

■太陽暦の発見と改暦

●古代エジプト暦(ナイル川の氾濫と季節の予測)
 太陽暦は、古代エジプト(紀元前2900年頃)で生まれました。正確には太陽ではなくシリウスという恒星を観察したようですが。この古代エジプト暦は太陽の1年365日を30日一カ月として12ヵ月(太陰太陽暦の一カ月が29日か30日で成り立っていたので)、余った5日を13月とした変則13ヵ月の太陽暦でした。太陽暦には基本的には一カ月の概念がありませんから一カ月を30日としたのは当然月の満ち欠けから生まれた概念をそのまま太陽暦に応用したのです。この暦はかなり正確に太陽を観察していたようで、すでに一太陽年は365.25日と認識していて、4年に一度閏日を置き、その年の13月目は6日としていました。
 なぜ、エジプトで最古の太陽暦が生まれたのでしょうか。
 元来エジプトの気候は乾燥した亜熱帯気候で、四季というより二季で、太陰暦の弱点である季節感をそれほど必要としない国でした。エジプト、とりわけナイル川デルタ地域では年間を通して降水量は非常に少ない地域でしたが、ナイル川の上流域エチオピアは熱帯モンスーン気候で、6月頃から雨季に入り、これによってナイル川下流のデルタ地域は7月中旬頃決まって洪水に見舞われました。そのため、正確に季節を予測する必要に迫られていたのです。もちろん太陰太陽暦は太陽の運行を加味した暦なのである程度季節を予測することもできますが、太陽暦に比べればいささか複雑すぎました。
 話はそれますが、この氾濫によって、上流地域から肥沃な土が運ばれ、デルタ地域ではその堆積物の蓄積によって農業に適した土地ができあがったのです。さらには、氾濫が治まると農地を元通りに配分するため、測量学と幾何学が発達したとも。
 しかし、1970年、ナイル川の上流にアスワン・ハイ・ダムが完成し、ナイル川の氾濫は調整され、デルタ地域では通年耕作が可能になりましたが、肥沃な堆積物は減り、ダムによって生ずる土砂に悩まされることにもなりました。人類の叡智は多くの繁栄をもたらしたことも事実ですがそれによって生じる負の遺産も受けざるを得ないのです。
●ユリウス暦
 この暦法に目をつけたのがご存知ジュリアス・シーザーでした。紀元前46年頃、古代エジプト暦をもとにユリウス暦を制定しました(ユリウス暦とはジュリアス・シーザーのローマ読み=ユリウス・カエサルからきている)。この時、古代エジプト暦にあった余分な13月の5日分を他の月に振り分け1年を12ヵ月としました。ユリウス暦の一太陽年も365.25日で、4年に一度閏年を入れていましたが、その入れ方を間違えていたといわれ、アウグストゥス・オクタビアヌスは紀元前6年ころ修正を加えています。暦制定に当たってシーザーは誕生月でもある7月をjulyとシーザーの名を残し、アウグストゥスも改暦に当たって、アクティウムの戦いの勝利にちなんで8月にaugustと名前をつけ、今日に至っています。
 ユリウス暦はキリスト教と一体となりヨーロッパ各地、地中海沿岸の地域に広まり、キリスト教徒の手によって週(7曜)の制度も導入されました。
 因みにユリウス暦以前の古代ローマ暦の新年は3月から始まり、2月が1年の終わりの月だったため、カエサルが新しい暦を制定したときに、平年とうるう年の日数の調整に使われることになりました。当時平年の2月は29日でしたが、閏年のための1日は、29日のあとに30日として加えられたのでが、皇帝アウグストゥスは自分の名前をつけた8月(August)を1日増やすために、2月の日数を1日削ってしまいました。
 それ以外にも、1年が3月から始まっていたころの名残りがあります。9月から12月は英語でSeptember、October、November、Decemberといいますが、これはラテン語の数字である7(septem)、8(octo<ご存知音楽でいうオクターブは8度音程を表しています>)、9(novem)、10(decem)からきています。September、October、November、Decemberがそれぞれ7、8、9、10番目の月であったときの呼び名がそのまま残っているのです。
●世界標準暦――グレゴリオ暦
 いずれにしてもこのユリウス暦は、欧米を中心に広く用いられていましたが、一太陽年を365.25日として、4年に一度閏年をおいていましたが、実際の太陽年はそれより少し短く、約365.2422日のため、16世紀ころには10日ほど狂いが生じてしまいました。このため、欧米諸国でもっとも大切な復活祭(春分の日の後の満月の次の日曜日)を算出するのに不便が生じ、1582年、ローマ法王グレゴリオス13世によって改暦されました。グレゴリオ暦は、4年に一度ある閏年を100で割り切れかつ400で割り切れない年は調整年として、閏日を置かないというものです。もっともこのグレゴリオ暦への改暦は宗教的要因が強かったため、世界標準暦になるにはいささか期間を必要としました。ベルギーやオランダ、ドイツなどのカトリック系では比較的速くグレゴリオ暦に移行しましたが、イギリスやアメリカは18世紀半ばであったし、ロシアやギリシャにいたっては20世紀に入ってからのことでした。


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